どいの父ちゃんのブログ

素人オーディオと 亡き犬と サラリーマン残り火生活

『この世界の片隅に』 の余熱…

 

 

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…「余熱」が、まだ冷めないのです。
 
映画を1回観た後、原作漫画(上・中・下3巻)を3回くらい読みました。
 
現在の感想みたいなものを、思いつくままに書きます。
 

言い訳をしときます。
映画は1回しか見ておらず、記憶違いがあるかもしれません。
また「ネタバレ」があります。これからこの作品に触れようとする方はご注意ください。
 

 
【映画で割愛されたシーン(リンと周作の関係の『証拠』=周作の筆跡の紙片)の理由】
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遊郭に住む白木リン。原作では、すずの夫:北條周作にとっての「特別な(初々しい)」存在であることを示すエピソード(周作のノートの紙片の存在)がありますが、映画ではこれが割愛されています。
・このエピソードは、後述する「エロティックなシーン」の伏線というか、リアリティを裏打ちするものなのですが、監督がこれを割愛した理由はなんだったのか。
・なお、原作にある「リンドウの絵柄のご飯茶碗」のエピソードは残されています。
 
父ちゃんは、考えました。
 
①夫(周作)がリンに与えた紙片の筆跡を、すずが「夫のもの」と気が付かないことに不自然さを感じたのではないか。
②「リンドウ茶碗」のエピソードだけで、周作のリンへの想いと「自己嫌悪」は充分に、且つ余韻をもって説明できると判断した。
③映画が長くなっていて(126分)、思い切ったシーンの割愛をせざるを得なかった。
④それとも、周作を、すずにとって頼りになる存在として描きたかった…。
 
・この作品はアニメとしては長めですが、実際に観るとちっとも冗長ではありません。そのことを付記します。

【水原哲(すずの幼なじみ=初恋のひと?)のその後】
 
・まず、上記の「エロティックなシーン」について。 水兵の水原哲は搭乗艦が呉に寄港した際、すずの嫁ぎ先の北條家に宿泊します。
・夫:周作は、哲を母屋ではなく離れに宿泊させ、すずに「アンカ」を持たせて、哲と一夜を過ごさせるべく仕向けます。
・その夜、哲はすずの顔に口づけをして「柔いのぉ、甘いのぉ」と語りかけますが、すずは男女の関係は拒絶します。二人は布団をこたつがわりにして語り合い、そして朝焼けの中、哲は軍艦に戻り、二人は二度と会わないのです。
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・映画では、このシーンの高度なエロティックさに胸がドキドキすると同時に、違和感を感じたのです。なぜ誠実な周作が、自分の妻を他人に差し出すようなことをするのか????
・しかし、原作を読んで、リンと周作の関係を知り、ある程度の納得がいきました。


すずとの結婚前、周作はリンに憧れた(今も?)。しかし、遊女のリンとの結婚はできなかった悔いがある。目の前の妻:すずへの罪悪感。すずは、幼なじみの哲が好きだったに違いない。そして、哲はおそらく戦死する。死に別れをする前に「思いを遂げさせてやりたい」
 
…こういうことなのかと思い至りました。
・しかし、そのあとまた考えました。周作はすずに、自分と同じような不倫(最近の「浮気」という意味とは違います)をさせ、ある種の哀しい『共犯者』にしようとしたのか、と。
 
・水原哲は、その後登場しません。その生死も描かれません。
が、原爆の後、近所の主婦がすずに語ります。「あの時、行き倒れで死んでいた兵隊さんは、息子だったのよ。だけど、私は息子だとわからんかった…」この残酷な証言が、私には水原哲の死を暗喩しているように思えます。
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付記):この映画(原作も)は、徹底的にすずの視点で描かれており、すずがあずかり知らぬことは観客(読者)にもわからないのです(1つの例外を除き)。
この設定によって、出来事の意味を、様々に考えさせられることになっています。
…見事です。

【鬼いちゃん(すずの兄)と人さらいの化け物】
・映画の冒頭、兄の代理として海苔を配達する幼いすずを捕えて背負い籠に放り込む「人さらいの化け物」が登場します。映画では、この化け物はすずの創作となっていますが、これはすずの記憶の「イメージ」でしょう。
・すずには、恐ろしい兄(お兄ちゃん=『鬼いちゃん』)がいます。彼は乱暴者で、近所の男の子たちにも恐れられる存在です。鬼いちゃんは、後に出征し、戦死します。兄の戦死の報に接し、すずと家族はどこか冷淡です。
 
・原作漫画では、すずが出征した「鬼いちゃん」を主人公にしたマンガを描きます。これは妹(あるいは自分自身)を喜ばせるためのもの。このマンガの中で、隊を離れた鬼いちゃんはジャングルで暮らすうち、ひげもじゃになり、やがて冒頭の「人さらいの化け物」とそっくり=少なくともビジュアル的には一体化します。
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・幼いすずは、人さらいの化け物の背負い籠の中で、少年時代の(未来の夫の)周作と初めて出会います。彼もこの化け物にさらわれたのです。すずは、かわいらしい機転によってこの危難を回避します。
・眠り込んでしまった化け物の手に、周作はキャラメルを握らせます。自分たちを食うことができず、腹を空かせるのはかわいそうだから…と言って。
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・どんな意味が込められているのか?と思い、考えたのは以下のことです。

①すずは記憶していないが、周作とすずは、幼い日に兄(鬼)との関係の中で会っていた。おそらく、兄と周作は何らかのつながり=悪ガキの交わりがあった。
②すずと周作の実際の出会いは、もしかしたら暴力的(性的=例えば兄の手引きでの「お医者さんごっこ」的なものだったのかもしれない。幼い日の周作の言葉「すずの名前は、ももひきに書かれていたからわかった」ということは、そういうことか?と。(勘繰り過ぎでしょうか)
③ただ、周作はおじけづき、ひどいことはしなかった(できなかった)。
④幼いすずにとって忌まわしいこの記憶は、自己防衛のためにおとぎ話的な物語に書き換えられた。
 
・寝込んだ化け物の手(…右の手)にキャラメルを握らせた周作。これは強要された「悪事」を回避するために、周作が鬼いちゃんに差し出した「悪ガキの貢ぎ物」だったのかも…。
・この作品の最後の方で、人さらいの化け物がもう一度現れます。この意味は、一体…(赦し?)。


【右手】
・すずは、呉で入院した義父の見舞い帰りに空襲に会い、防空壕に入ります。この爆撃の描写のリアルな恐ろしさ。暗闇の中の音と振動…。空襲が終わり、義理の姉の6歳の娘:晴美の手をひいて帰る道すがら、不発弾(時限爆弾?)が炸裂し、晴美は即死。すずは右手を失います。
・この出来事の残酷さ。観客と読者はものすごい喪失感に襲われます。 あんなにも絵を描くことが好きなすずが、描けなくなる…。皆を慰め、喜ばせたすずの絵…。原作ではリンの同僚の遊女を慰めたすずの絵…。そしてもしかすると、唯一リンに対する優越感があった絵(を描く右手)。
 
【広島のあの日、そしてエンディング】
・右手を失い、義姉(径子)の娘の死を防げなかったすずは、実家(広島市)にもどる決意をします。(観客は「すずさん。だめだ、帰ったらだめだ」と心の中で叫びます)
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・すずは、荷物をまとめながら、義姉に「やっぱり、ここに居させてください」と言い、径子はそれを受け入れます。
 
815日の「玉音放送終戦」があり、すず(と径子)は、この映画の中でただ一度泣きます。それぞれの喪失。それぞれの怒り…。
終戦後まもなく、すずは原爆で廃墟となった広島を訪ねます。そこで一人の浮浪児の少女と逢います。少女は、原爆で負傷した母親に手を引かれて危険な場所から逃げ、生き延びたことが描かれています(作品の中で、唯一この場面だけは、すずにとっての不可知の時空です)。
 
・少女の母親は、少女を安全な場所に連れてきた後、亡くなります。母親の右半身にはガラスが突き刺さり、右腕が失われています。少女は、母親の遺体にたかる蠅をはらいながら一緒にいますが、やがてあきらめて放浪します。
・ある夜、少女は周作とすずに出会います。小さな海苔巻き!(海苔が、この映画では大切な存在です)を落としたすず。それを拾う少女。少女は、すずの右手がないことに気づき、母親と重ねあわせて、その海苔巻きを返そうとします。すずと周作は「いいんだよ、おあがり」といいます。少女はそれを食べ、すずに寄り添います。
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このシーン。強烈です。内臓を強い力で掴まれるような気持になりました。
 
ああ、もう一度この映画を観たい。
まだ、書ききれない感動があるのです。
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