どいの父ちゃんのブログ

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【続】ゴジラのこと…

 
7月26日にC市の劇場で観たハリウッド版新作『ゴジラ』の評価(前記事)について、少し拙速にすぎたか…と反省しています。
大変失礼ながら、拙ブログにいただいたコメントへの返信をする前に、本文に追記させていただきます。
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ゴジラは、核兵器や戦争によって引き起こされる悲劇、及びそれに対する日本人の恐怖と嫌悪の象徴だと、思っています。
他方、その後のゴジラは、素直にカッコいい「スーパーな破壊神」でもあって、子どもの頃の父ちゃんは、それに喝采したのです。
そして、ある程度の年齢になってから昭和29年の「第1作」を観て、「ゴジラ」を製作した当時の日本人の「思い」を感じることができた(つもりだった)のでした。
 
この日本人の「思い」は、普遍性を持つものだと、父ちゃんは無意識に信じていました。
しかし、必ずしも、そうではなかったのか…と、いうのが、今回の『ゴジラ』を観ての感想です。
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今回の『ゴジラ』には、きわめて明確に、アメリカ人が体験しトラウマになった「9.11」が投影され、
また、『ゴジラ』を生んだ日本への敬意として、「3.11」の悲劇と恐怖が、おそらくアメリカ人としての精一杯の誠実さで投影されていました。
こういった点は、軽々に論評できるものではありません。
 
ゴジラ』では、ゴジラに敵対する「ムートー」という巨大生物が登場します。
放射能を濫用することの象徴としての邪悪な役割は、むしろこの「ムートー」が引き受けていて、ゴジラは(人間の側から見て)「正邪、定かならない存在」として登場します。結果として、ゴジラ放射能を帯びた危険な存在なのかどうかは能動的には描かれず、曖昧なままおかれます。
 
米国民の生命を最優先する米軍は、ゴジラとムートーを殲滅するために「核兵器」の使用を決定します。
それに対して、渡辺謙さん演ずる芹沢博士は「父を広島で失った」ことを示し「核兵器使用の中止」を司令官に要望します。
このあたりの緊迫感(説得力)が少し足りないのと、最終的に核兵器が使用されてしまったのか否か?が、やはり曖昧になっています。
 
また、この映画の中で「アメリカ人」も放射能事故によって死亡しますが、それは日本国内での出来事。
アメリカ本土では、怪獣たちの破壊による犠牲者はでますが、「放射能」による被害は(おそらく意識的に)描かれません。
 
勘ぐってみると、かつて人間の上に核兵器を落としたアメリカ人の「罪悪感」と、これを「あくまでも正義の使用だった」としたい政治的立場がないまぜになって、かつ「ゴジラを生んだ日本への敬意も表したい」という(これは私たちにとっては嬉しいことですが)気持がまぜこぜになって、結果として、どこか中途半端な作品になってしまったのだろうか、と思います。
 
善悪・好悪を別にして、現在進行形で「戦う国家」であるアメリカの、お気楽ではない状況の側面が、現れているのかもしれません。

 
ゴジラの造形についても、トカゲの化け物のようだった『第1作ハリウッド版ゴジラ』に比べればマッチベターですが、今度のゴジラは「グリズリー」的です。
アメリカ人にとって、リアリティがあり、パワフルな「人智を超えた自然の代表者」としての存在を投影しやすいのは、「大きな熊」の姿だったのかなぁと、感じたのでした。
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けなすばかりではありません。
映像として、ゴジラがカッコいい場面はいくつかありました。青白い「アトミック・ブレス」をはくシーンは、心が躍りました。

だらだらとした「父ちゃん論評」、これで最後にします。
 
「今になって、ゴジラを『日本が誇るスーパーヒーロー』だとか『反戦反核の傑作』だとか持ち上げる風潮があるが・・」
「長い間、多くの人々はゴジラ映画を子供だましとして見向きもしなかったし、実際、取るに足らない駄作が多かった。ダメな時期が長かったこは事実だ」
「ぼくは、そういうことを無視して、むやみに崇拝することを快く思わない」
 
これは、いつか、ゴジラ生誕60周年を特集したTV番組で、みうらじゅんさんが話していたことです。
ご存じのとおり、みうらさんは多くのものから「面白さ」を抽出することができる才人で、
怪獣モノ全般への愛情と造詣の深さは、相当な高みにある人です。
 
父ちゃんには、みうらさんの鋭いコメントを正確に要約することができないかもしれませんけれども、この意見には深く・深く同意するものです。
 
自らの「軽躁的にゴジラを礼賛していた態度」が、今回の『ゴジラ』を娯楽作品として楽しみにくくしたのだなと、反省しているところです。
 
ゴジラ』のレンタルが始まったら、さっそく借り出して、もう1回、2回、観たいと思っています。