どいの父ちゃんのブログ

素人オーディオと 亡き犬と サラリーマン残り火生活

本、写真、おでかけとオーディオ

先週「南光」を読み終えた。中身が濃かった。

地元の図書館に蔵書が無くて、県内他地域の施設から取り寄せてもらったため、貸出期間(基本2週間)延長ができないのだが、「濃い」だけでなく文章がカッコよくて、時にしばらく立ち止まったりして時間がかかって、…最後の方は駆け足になってしまった。

著者による<あとがき>見開きの右頁に、主人公:鄧謄キ(南光は号)のポートレート。植民地時代、若き日に台北市内に開いたドイツ製高級写真機だけを扱う「南光写真機店」で。…以下は、あとがきの中の一文。

(前略)…デジタル撮影がこんなにも容易になり、画像が氾濫しているような時代において、写真を撮ることはもはや以前とは違う行為になっている。伝統的なフィルム写真が存在し続けることの価値とはいったい何だろうか?
 僕にとってフィルムでなければならない理由のひとつは、暗室が覚醒しながらにして潜在意識に入っていけるような空間であることだ。真っ暗な部屋のなか、赤い安全灯があらゆる物の輪郭を照らし出す。フィルムには一コマずつ切り落とされた時空のかけらが閉じ込められていて、僕らの手で引き伸ばされ、トリミングされ、理想のなかの記憶や心象に変換されるのを待っている。それは言わば、破られたくない白昼夢のようなものだ。
 もし写真が時空のある瞬間を切り落とし、雄弁なイメージとして永遠に留めるものであるなら、僕がこの小説で成し遂げたかったのは、その「凝固した瞬間」を反対に時間の大河に還し、そこに閉じ込められた喜怒哀楽をあらためて感じることだった。
 だからこれまでとは異なるアプローチで執筆をし、古写真を一枚一枚眺めては、脳裏に浮かぶ意識のながれを噛みしめるようと努めた。(後略)

ワシが幼い頃、写真に凝った父親が、家族写真を自分で焼き付けていた。(…確か)毎週金曜日には居間が暗室になって、普段は皆でご飯を食べテレビを見る部屋に赤色灯が下がり、現像液の酸っぱい匂いが充満した。父がホーロー製のバットの薬液に印画紙を浸して、竹のハサミでつまんで揺らすと、じわじわと、時には急激にモノクロの映像が浮かんできたのだった。

このあとがき文に記憶を呼びさまされて、「覚醒しながら潜在意識に入っていけるような」という表現に、手触りのある実感をおぼえたのだった。

それから社会人になる前、普通よりも長いモラトリアム期、上野にあった友人の家に同居しながら、譲ってもらったPENTAX6x7やCONTAXで撮ったフィルムを自分たちで焼き付けた思い出。

アルバイトした金で、ワシントン州モンタナ州をレンタカーで回って撮影した写真は、トリミングに気をつかったっけな…。

この本読んで、忘れていたそんなことも思い出した。

いつか手元に置きたい一冊(程度のいい中古本が安く買えるといいなぁ)

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さて。会社の保養所がある草津に出かけて、昨日かえって来たところ。

草津は涼しくて、温泉はキモチよくてとても良かった。

白根神社の祭礼があって、湯畑まわりを神輿が練り歩いてた。

神社にお参りもしてきましたよ。

保養所に戻る途中に寄ったスーパーの駐車場にジムニーの5ドア版:ノマドが停まっててね。…(#^^#)ヤベェ…やっぱり次のクルマはこれにしたい。

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長野のOさんから連絡があった。

「バッフルとネットが完成。予定より早く発送できる運びとなった。20日(日)の午前中に届く」…(#^^#)とのこと。今日はその到着待ちです。こんなに幸せでインカ帝国

今朝ははやく目が覚めてしまった。でかける前より稲穂が大きくなってる。