ところで…
今回、行先は母ちゃんの希望で決めたんだけどね…。松山ならばと…父ちゃんも行きたい場所があった。(たくさんあるけど『ここだけは』っていう場所)
それは松山からJRで1時間程の「大洲市」。司馬遼太郎のライフワークだった「街道をゆく」の第14巻は「南伊予・西土佐の道」で、この巻が週刊朝日に掲載されたのは1978年の9月から12月にかけてのことなのだが…。
「街道をゆく」はどの巻も味わい深いけれども、四国、とくに伊予国(愛媛県)は司馬さんの「愛情」が格別に深い土地のように、父ちゃんには感じられる。この巻の冒頭は、正岡子規の舎弟ともいえる高浜虚子の「子規居士と余」という本の引用で始まるのだが、司馬さんの心からの愛が伝わってくるのです。…長くなるが、もう少し。
今から45年前の松山空港に降り立った一行が、タクシーを駆って内陸の砥部から大洲に入る際、司馬は、同行する画家の須田剋太に大洲の美しさを伝え、誇ろうとするが…。以下、「街道をゆく」14巻の56頁以降引用
大洲の町は、肱川(ひじがわ)の白っぽい河原に発達した。
まわりが山で、河原にも島のように小山を残し、かつては赤松の濃いみどりが川の瀬々に滴るようであったらしい。川はこのあたりになって大きな淵をつくり、その美しさは碧潭(へきたん)としか言いようがなく、その松と碧潭のなかに童話の中のお城のような大洲城の櫓の白壁が映えていた。
私が昭和三十年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息を忘れる思いがした。
『愛媛面影』に、
比志川(註・肱川)の流れを引きて、城郭の遠望、殊にめでたし。
とあるが、私も日本の旧城下町でこれほど美しい一角を持った土地はないと思ったりした。
「大洲はいいですよ」
と、道中、須田画伯に宣伝したりしたが、こんどの旅で私自身の楽しみにもなっていた。大洲はかつて三度通過したが、一度も泊まったことがなく、あの刺繡画のような景色を時間をかけてながめてみたかったのである。
かつて大洲藩の支藩の陣屋のあった新谷をへて大洲に近づいた。まだ午後七時前で、暮れるには間があった。町へは北からはいった。
肱川の大橋を渡るときに、須田画伯に、
「右手を」
川下をご覧あれ、といってみたのだが、言いつつ元気が失せた。碧い淵と磧(かわら)に面していた白壁の可愛い櫓の横に、およそまわりの自然とは不調和なコンクリートの会館のような建物ができていたのである。
「あのコンクリートの建物ですか」
右を向いた画伯が、すぐ興をうしなったように首を前に戻した。そのうち車が橋をわたりきってしまった。
「以前、あのコンクリートの新建造物がなかったんです」
弁解すると、画伯はなぐさめるように、
「どこでもそうです。日本中、気が狂っているんです」
といった。
あとで、宿についてからきいてみると、その新建造物は二軒あって、一軒は昭和四十三年にできた市立市民会館であり、一軒は同四十九年完成の市立中央公民館であるという。
以下、日本の多くの地域の歴史や自然美を蹂躙する行政を攻撃し、かつ嘆く文章が続く。この後、司馬遼太郎は、担当者が予約していた宿(油屋)が江戸・明治時代のままの佇まいであることを喜び、大洲市行政を強い言葉で貶したことを埋めあわせるかのように、この宿屋を無邪気な程に褒め称えるのだった。
…そういう訳で、肱川沿いの大洲城と街並み、そして今は宿屋を廃業して食堂になっている「油屋」を、この目で見てみたかったのです。
たいへん前置が長くなったけど、伊予の旅の第3日目のこと…。
***
3月22日(金)は晴れた。
朝はホテル食堂の窓際席で鯛めしを食べた。
「大街道」駅プラットホームから路面電車。JR松山駅に着いた。
駅前にある句碑「春や昔 十五万石の 城下かな 子規」…
駅前タクシー乗場に、ひともとのソメイヨシノ(と思う)。ここだけが咲いていた。
構内の駅そば。うーん。ここでも食べたかったなぁ(^^;)
Suicaが使えないので券売機で切符を購入。往路は内陸の内子経由で伊予大洲を目指す。
みどりの窓口がイイ感じだった。
改札を抜けると、一番線から観光列車「伊予灘ものがたり」が出発するところだった。
ワシらは跨線橋を渡って、普通の一両編成ワンマン車両で行くのぢゃ(^^)/ソノホウガ イイモンネ
運転席。丸眼鏡の若い運転手さんがしっかり指差呼称しながら運転してた。乗客は常に十数名いた。運転席以外の窓ガラスは汚れてて、景色がクリアに見えなかった。
松山の隣駅「市坪」のホームから見えたのは「坊ちゃんスタジアム」かな?
「呑み鉄」もしたいので…。ペットボトルに赤ワインを仕込んできたのだった(^0^)
向井原駅から線路が分かれる。ワシらは内陸の内子線を通っていく。
ここからトンネルが増える。長ーいのもあったよ。
線路沿いは菜の花。山また山の地域なんだな。
伊予大洲駅に到着。
木材をつかった跨線橋がいい。
女性の駅員さんが一人で切り盛りしてた。駅横の観光案内所でマップを貰うと「肱川沿いの堤防の上を通るのがお勧めですよ」と言われた。
とても穏やかで良い天気。あたたかい。静かな道を行く。
堤防の道をゆくと…見えた大洲城。「街道をゆく」の頃には無い四層の天守も見える。
素晴らしい眺めと空気感。振り向くと肱川をまたぐ鉄橋を電車が走っていくので、シャッターを切ろうとしたら… なんということ! カメラのバッテリーが切れた。予備バッテリーは持参してたのだが、何故か、この日に限ってホテルの部屋に置いてきてしまってた(;´Д`)アウ~
肱川の大橋を渡る時が、最後の一枚だったのだった*1…仕方ない。ここからはスマホで撮ることした。
まず大洲城を訪ねた。丘の上に真っ白な姿で建っていた。
ソメイヨシノはまだ開かない。
城を取り囲むサクラが咲いたら、それは夢のような景色だろうと思われた。
城からの坂道を下ると見える昭和の建物。これが「街道をゆく」で酷評された市民会館なのだろう。大洲市の市章の「〇」が描かれている。
大橋からの眺め。司馬サンが須田画伯に話しかけた時の風景は、こんな感じだったのかな…。
続く。